さて、今年もドラえもん劇場版が公開された。本来3月初旬に公開予定であったが、2020年時世の例に漏れず公開時期が8月に延期となった。ドラえもん誕生50周年というアニバーサリーイヤーともあれば公開中止ということはないだろうが、コロナ禍におけるエンタメ業界の状況を鑑みると公開まで漕ぎ着けた事実にはまず胸をなで下ろしたい。
それでは、グダグダと今年の劇場版作品についての感想を綴っていくこととする。ネタバレを多分に含むので未見の方はブラウザバック。
「恐竜」というタイトルに馳せる思い
恐竜の名がタイトルに含めまれているのには非常に大きな意味があると感じている。恐竜といえば映画ドラえもん第1作「のび太の恐竜」、声優交代後初の劇場版であり映画ドラえもん第26作「のび太の恐竜2006」がある。
どちらも映画ドラえもんシリーズの節目を飾る印象深い人気作品となっている。このように重要なタイトルを名付けたことからも、今作にかける意気込みの高さが伺える。
一旦「のび太の恐竜」を振り返る
「のび太の恐竜」の物語はのび太が現代で恐竜を見つけると宣言することから始まる。のび太が偶然にも発見した恐竜の卵の化石を復元してみると、フタバスズキリュウの子供が生まれ、「ピー助」と名付けて育てることを誓う。現代で成長したピー助を育てることに限界を感じたのび太はピー助を古代に送ろうとするが、ピー助を狙うタイムギャングの妨害を受け、古代のアメリカにピー助を残してしまう。ピー助を古代の日本に送り届けるべく5人が古代の世界を冒険する、といった内容だ。
「のび太の恐竜」で古代に置いてきたピー助には絶滅という未来が待っている。「のび太の恐竜」は最初から別れが決まっていた物語であった。そういった意味では、ピー助を古代へ返すことは必須ではなかったのかもしれないとすら思えてしまう。
新ドラシリーズの魅力
「のび太の恐竜2006」では旧作のストーリーを踏襲しつつ、映像技術の向上による迫力あるアクションシーンが加わったことが特徴であった。またそれだけではなく、のび太以外の3人もそれぞれの個性がふんだんに発揮されているストーリーとなっている。
声優交代前の第1期シリーズ序盤では劇場版1作ごとに各人物にスポットが当たるような作品があったが、声優交代後の第2期シリーズでは特に全員が活躍するようなシナリオになっていることが多い。のび太の正義感、しずかの優しさ、スネ夫の発想力、ジャイアンの義理堅さ、これらは特にドラえもん映画の面白さを構成する重要な要素となっている。
そういった変化もあり第2期シリーズ各作品は物語に厚みが加わっていることが多い。のび太たちが活躍するため、旧作ではただタイムパトロールに助けられて終わりといった結末がリメイクで大幅に書き換えられることもある。「のび太の恐竜2006」も例に漏れず、原作の良さを無くさないまま新たなテイストを加えたシリーズ屈指の人気作となっている。
本作のストーリーライン
本作のシナリオは冒頭までは「のび太の恐竜」と酷似している。のび太が恐竜を見つけると宣言→卵の化石を発見→卵を孵化するといった流れはほぼそのまま、しかしてその後の流れは一致しない。
卵から生まれたのはフタバスズキリュウではなく、羽毛が生えた双子の恐竜であった。2頭はのんびり屋の方が「キュー」、活発な方が「ミュー」と名付けられる。そして5人は成長した2頭を古代に送り届けるためタイムマシンで時間遡行し、仲間の恐竜の痕跡をもとに彼らを群へ送り届ける旅に出る。
キューとミューは対照的な成長を遂げていく。活発で何にでも興味を示して成長が早いミューに対し、キューはのんびり屋で臆病であり成長も遅いように見える。実際ミューが翼を使って飛べるようになっても、キューは全く飛べる気配が見えない。
そんなどこかダメさに親近感を覚えたのび太はキューとの友情を育んでいく。古代の冒険を通して1人と1頭は友情が大きな困難を乗り越えていくのだ。
今井一暁×川村元気のコンビ
のび太の宝島からのコンビ続投である。前作ではオリジナルシリーズが3作続けた挑戦と、旧作リメイクを挟んでいた従来の第2期シリーズからの脱却を窺わせる姿勢を見せた。
もちろん旧作へのリスペクトを忘れない。宝島では旧作品で馴染みのネタを盛り込んだり(のび太の「ドラえも〜〜ん」からのタイトル導入、ジャイアンの「のび太のくせに生意気だ」等々)、わざわざ秘密道具の名前を言わない演出で見知った道具を使いこなしてアクションシーンが軽快となった(もちろんひみつ道具がどういった効果を持つかは見てわかるような演出に支えられている)。
悪役無き世界
本作ではタイムギャングが登場しない。これは見ていて興味深かった。作中後半で大型翼竜が脅威として立ち塞がるが、悪意を持った野望を遂行するような悪役は登場しない。むしろ新恐竜との別れを惜しんだのび太が歴史改変を企ててしまうような展開となっている。
ここも従来と比べて新しいと感じた。恐竜絶滅させないようにしちゃえば、という誰しもが考えた「もしも」は、今まで多くのシリーズでのび太たちを救ってきたタイムパトロールによって全力で阻止されてしまう。あの一シーンだけで切り取れば、今作の「敵」はタイムパトロールだったのかもしれない。
ラストでは恐竜が救われる未来を描いた。この物語のあと、どこまで恐竜が生き延びたかは分からない。のび太が発見した新恐竜が生態系に大きな影響を与えたのか分からない。
のび太の日本誕生
卵から育てるという流れは人気作の「のび太の日本誕生」にも通ずるものがある。「のび太の日本誕生」では3頭の珍獣の育て親となることを誓うストーリー、さらに「新のび太の日本誕生」ではのび太の親とのシーンを織り交ぜることでその色をさらに際立たせた。子供であるのび太が育て親になることで、親の気持ちを推し量れたのではないかという物語だ。
今作でも恐竜を育てているが、その関係性は日本誕生とは異なる。のび太と恐竜たちは友達となるのだ。ひみつ道具「ともチョコ」を使っていることでその関係性を明示している。数多の窮地を救ってきた「桃太郎印のきび団子」は本作では品切れだった。
多様性の否定?
物語中盤でキューとミューは仲間の恐竜の群れに合流するのだが、古代の仲間の歓迎は手荒いものだった。空を飛べないキューを、コミュニティーは拒絶したのだ。
のび太はキューが群れに受け入れられるよう特訓を敢行する。しかしそのシーンは側から見てもあまり気持ちの良いものではない。飛ぼうとする→飛べない→飛ぼうとする→飛べない→挑戦→失敗→…、理論もクソもない気合だけで挑戦を繰り返すガムシャラど根性特訓だ。
何度も挑戦して全身傷だらけになったキューは当然逃げ出してしまう。これだけ切り取ると飛べないキューが仲間に迎合するために無理して努力を強制させられるような印象も取れてしまう。のび太自身も自分のやっていることの正しさを疑ってしまう。
友情、努力、勝利
だがそれもしずかとの川での会話で救済される。「のび太さんならキューちゃんの気持ちをわかってるはず」という感じのセリフだ。
物語序盤ではのび太のダメさ加減が描かれている。遅刻をするのび太、テストでいい点が取れないのび太、逆上がりができないのび太。同じく空を飛べないキューに対してのび太は自分自身を重ねていたのだろう。
確かに頑張ることは辛い、やりたくない。できないのならやらなくていい、得意なことだけ伸ばせばいいじゃん。果たしてそれが本当の多様性だろうか?
キューの真意として、飛ぶ特訓から逃げ出したのは決して飛ぶことが嫌だったからじゃない。失敗に飽きたのだ。成功体験がないと努力は続かない。なりたい姿に到達するまで意欲が沸き続けることは稀だ。
物語終盤で襲いかかる脅威に対してのび太とキューは友情で立ち向かう。決して強制されただけの努力ではない、在りたい姿を目指した末に困難を乗り越えたのだ。
総評
最&高。
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